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暁子さん 文昭と生きた33年 幸せな人生でした

遺族を代表して葬儀告別式で文昭さんに語りかけるつれあいの星野暁子さん)、長兄の星野治男さん)、いとこの星野誉夫さん

皆さん。文昭と最後の別れをするためにお越しいただき、本当にありがとうございます。星野文昭への呼びかけをもって、あいさつに代えたいと思います。
文昭、聞こえていますね。今日もたくさんの方が文昭と別れを告げるために来てくれていますよ。
みんな、あなたがどんなに頑張ったか見ていますよ。文昭と私の闘いに励まされたと、みんな言っていますよ。
苦しい呼吸の中で最後の力を振り絞って、あなたは布団から手を出していました。その手を握り締め、あなたの胸に顔を埋めることができたことは、生涯忘れられない思い出になりました。
文昭の最後の手紙を読み返しています。手術の前の日に届くように5月26日に書いた手紙です。その手紙は最初から最後まで、私が心配しないで手術に臨めるように、そのために書いた手紙でした。
 文昭はいつだってそうでした。持てるもののすべてを私に捧げて、それが同時に、労働者民衆に捧げるような生き方を、文昭は33年間貫いてきました。
最後に描いた絵は「アフガン 山の学校で学ぶ」という作品です。「体に力が入らないからバックなどはもうひとつだけど、少女の表情はうまく描けた」と言っていました。勉強する勝ち気な少女の表情が生き生きと描かれています。文昭は私の中の勝ち気な面を見いだして楽しんでいて、少女の顔を私に重ねながら描いているのです。
遺体になったあなたと初めて接吻(せっぷん)しました。冷たかったけど、柔らかな感触が残りました。
過酷な人生を引き受け、笑顔で誰をも迎え入れた文昭。みんなのために生きてきた文昭が、なぜこんなふうに命を奪われなければならないのか。決して帰ってくることのないあなたを思って私は泣きました。
そして思い出したのは、文昭がいつも「死者と共に生きる」と言っていたことです。文昭は死んではいない、私の中に生きています。そして多くの労働者民衆の中に、文昭の絵を愛してくれたたくさんの人々の中に、皆さんの中に生きています。私が笑えば文昭も笑い、私が泣くと文昭も泣くので、泣いてばかりはいられないのです。
文昭が生涯をかけた人間解放の闘いを、私が引き継いでやれば、文昭も一緒に闘って、勝利の美酒を酌み交わすことができると私はそう思っています。
あなたの旅立ちに私は、あの1971年11月14日にあなたが来ていた同じ色の、薄青のシャツとグレーのズボンを選んで着せました。「権力が、自分がやっていないことを百も承知ででっち上げたことに怒りはあっても、沖縄闘争を闘ったことにみじんの後悔もない。もう一回、生まれてきても、僕は暁子とみんなとの団結を生きる」と、文昭は言っていたからです。
文昭と一緒に生きた33年、幸せな、良い人生でした。
文昭、あなたを殺した国家権力を裁くために国賠をやりましょう。そして、文昭の闘いを私が継承して、再審の新しい闘いに踏み出しましょう。
文昭、あなたは今日、旅立つけど、これからもずっといつも一緒です。

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