「私は無実・無罪だ」/1971年11・14渋谷暴動闘争初公判、大坂正明同志が堂々の冒頭陳述
沖縄返還協定批准を阻止するために闘われた1971年11・14渋谷暴動闘争ででっち上げ逮捕・起訴された大坂正明同志の裁判(高橋康明裁判長)が10月25日ついに始まった。東京地裁には傍聴券を求めて三百数十人が並んだ。傍聴できなかった仲間たちは、午前中、地裁前で小集会と宣伝活動を行った。昼休みには、日比谷公園霞門から法務省、地裁を一周するデモが行われ、「大坂さんは無実」「大坂さん頑張れ」と訴えた。
厳戒態勢の429号法廷。開廷が宣せられ、大坂同志が法廷に現れる。逮捕以来5年5カ月、静かな闘志を緊張した表情に秘めて被告席に着いた。星野暁子さんや同郷の友人たちの「帯広カルテット」を先頭に大坂正明さん救援会が入った傍聴席からは、拍手と激励の声が飛んだ。
人定質問の後、検察官による起訴状朗読。「凶器準備集合、公務執行妨害、傷害、現住建造物等放火、殺人」の五つの罪名でのでたらめな起訴である。
大坂同志が冒頭意見陳述を行った。①私は無実・無罪、②星野文昭さんの無期懲役判決はあまりにも不当、③11・14闘争の正当性は今日の沖縄の現実で証明されている、④公訴事実に関してはすでに時効が完成している、⑤この公判を反戦・反核・反改憲を訴える場として闘う、というきわめて簡潔・鮮明な意見で、法廷を圧倒した。(陳述の全文を後ろに掲載)
弁護団から公訴棄却の申し立てと免訴の申し立てに関する意見が述べられた。
検察官の冒頭意見陳述は、でたらめな事実認定に基づくでっち上げであることを自ら開陳するものであり、それは続いて行われた弁護団の冒頭意見陳述で鮮明に突き出された。弁護団は、「五つの罪名で起訴されているが、客観的物証は何もない、写真はくまなく撮影されていたが、大坂さんはどこにも写っていない」と指摘し、大坂同志が公訴事実で言われている現場にいなかったことを明らかにした。「目撃供述は面識のないデモ参加者の供述のみで、しかもその取り調べは全く違法なものだったことが星野さんの公判で明らかになっている」と言明した。
この後、検察官が証拠の中身を「解説」した。71年11月当時の「前進」や、事件の現場検証の写真など、いずれも大坂同志と結びつけることができないものであり、決定的証拠が何もないことを自己暴露するものでしかなかった。
●翌日、第2回公判
翌26日、第2回公判が連日の全日法廷で行われた。検察側証人の元警察官3人の証人尋問。3人とも当時のことについて、何を尋問されても「覚えていない」を連発し、50年前の調書のみででっち上げ有罪を狙おうという検察官の意図が鮮明になった。傍聴席から「ウソつけお前」と鋭い批判が浴びせられ、裁判長はこの傍聴者をすぐさま退廷させ、早くも余裕のない訴訟指揮を露呈した。
弁護人が反対尋問で「写真によるとガス弾の水平撃ちをしようとしている。命にかかわる危険なもの」と追及したが、「わかりません」とふざけた証言に終始した。
次回11月1日(火)の公判も元警察官2人の証人尋問だ。年内9回の公判が予定されている。傍聴闘争に結集し、でっち上げを許さず闘おう。
【公判スケジュール】
11月1日(火)午前10時30分開廷、11月10日(木)午前10時開廷 いずれも東京地裁429号法廷 ※傍聴券配布のため1時間前集合
■大坂同志の冒頭意見陳述
第一に、私は五つの罪名で起訴されていますが、すべての容疑についてその事実はありません。したがって無実であり無罪です。
証拠とされているものは、当時の参加者の供述調書であり、それは取り調べを行った官憲による創作文でしかありません。
取り調べが長時間であったり、大声で恫喝されたり、あるいは誘導によって、取調官が作ったストーリーを当事者自らが語ったという形にさせられたものなのです。
そうしなければ取り調べが終わらないのです。だからうそを承知で指印を押しているということです。そうした実態は星野文昭さんや奥深山幸男さんの公判で供述者当人が証言していることから明らかです。
調書に自ら指印を押しているから正しい内容だというのは詭弁(きべん)です。
このような供述調書には証拠としての価値はありません。
第二に、この創作された供述調書をもとにして、星野文昭さんは、無期懲役の判決を受け、44年間の獄中闘争の末、杜撰(ずさん)な刑務所医療によって無念の死を強いられました。
供述者本人がその調書の内容を否定したにもかかわらず、それを無視し、官憲が創作した調書のみを根拠として下した判決はあまりにも不当です。
これは裁判官が「有罪ありき」として下した政治的判決にほかなりません。このような不公正で理不尽な判決は許されるものではありません。
第三に、1971年11月14日の闘争は沖縄返還協定批准に反対するものでした。11月10日に沖縄で打ち抜かれた全島ゼネストに連帯して闘われたのです。この返還協定の是非が全社会的に問われていたことを認識してもらいたいと思います。
その協定の内容とは、沖縄県民が望んだ「核抜き・本土並み」とはかけ離れた、在日米軍基地の沖縄への集中と、自衛隊基地の新設だったのです。これでは平和の島にするのではなく、永久に基地の島となってしまうのです。
その時私たちが指摘したことの正当性は、半世紀後の今日、沖縄の現実によって証明されています。今や沖縄には在日米軍基地の70%以上が集中し、ミサイル基地網がつくられているのです。沖縄は今、再び戦争の最前線に立たされようとしています。そうした政府の攻撃に対して、辺野古では新基地建設に反対し、連日多くの県民が立ち上がっています。沖縄では「命こそ宝」と言われ、平和の島になることを望んで、どれほど金を積まれてもそれを拒否して、基地と闘う人々が多数存在しているのです。
このような沖縄の現実と、これを生み出した返還協定を顧みるならば、返還協定に反対した私を裁くことは不当です。本来裁かれるべきは政府の沖縄政策であり、政府そのものだということを強く訴えます。
第四に、公訴事実にかんしてはすでに時効が完成しているということです。奥深山幸男さんが病気から回復することが不可能だと分かっているにもかかわらず、将来的に回復困難であれば手続きから解放すべきという最高裁判例を無視し、行うべき判断を回避し続けるという裁判所の不作為によって、この不正義は引き起こされました。奥深山さんは、起訴されてから亡くなるまで45年間、公判停止されてからでも36年間も被告席に縛り付けられたのでした。奥深山さんの主治医は一貫して回復困難な統合失調症と診断していたにもかかわらず、私の時効を止めたままにしておくために、私に対して刑罰権を行使するために、裁判所は奥深山さんに対する判断をあえて下さなかったのです。
そのために私は46年間の長きにわたり、指名手配を受け続け、家族にも会えない生活を強いられました。そして、今、51年前の事件について裁かれるという、前代未聞の裁判の当事者という立場を強いられています。証拠は散逸し、防御権の行使も十分にできません。
1994年に奥深山さんの免訴申し立ての際に、奥深山さんについて裁判から解放していれば、全ての公訴事実にかんして時効は成立していました。このような裁判所の不公正な不作為をここで正していただきたい。
第五に、今日台湾をめぐり、日米と中国が対立を深め、挑発しあって一触即発といった危険な状況が生み出されています。もし戦争が開始されると、沖縄のミサイル基地などが真っ先に攻撃されます。そうなると沖縄は再び「捨て石」とされてしまいます。沖縄県民は不屈に反戦・反基地を闘い続けています。
私が半世紀前に抱いた沖縄県民に応えようという気持ちは、今もまったく変わりません。だから沖縄県民の闘いに連帯して、私はこの公判を反戦・反核・反改憲を訴える場として闘います。
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