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「4・9反核燃の日」闘争、福島圧殺、原発再稼働と核燃サイクル推進に怒り

20130411a-1.jpg 4月6~7日の2日間にわたって、2013年「4・9反核燃の日」が青森市内と六ケ所現地で闘われた。福島圧殺と改憲・戦争、核武装のための原発再稼働と核燃サイクル推進への怒り、労組つぶしと雇用破壊への怒りが、安倍政権打倒へ向かう一つの怒りの塊となった。結成1周年を迎えたNAZEN青森の奮闘は全体をけん引した。
 4月6日午後5時、青森市文化会館でNAZEN青森結成1周年集会が開催された。昨年に続き、南部バス労組書記長が司会をつとめ、委員長の間山正茂さんが開会あいさつを行った。 

20130411a-2.jpg 集会のメインは、福島県飯舘村の長谷川健一さんの「原発に〈ふるさと〉を奪われて」と題した講演だ。長谷川さんは、酪農家、区長、県酪農組合の役員の立場で、3・11当時の国、県、村と村民の動きをつぶさに見てきた。3月14日役場に行ったら、職員が「大変なことになっている。40マイクロシーベルトある」と言った。しかし、国や県はSPEEDI、米軍提供の情報を隠し、住民を無用に被曝させた。学者が村に入って安全説法をし、村民が普通の生活に戻っていった中で、雨どい下1000マイクロシーベルトが測定された。近くで子どもが外で遊んでいた。結局4月11日に避難設定が出されたが、その前日には、近畿大学の教授が「子どもが外で遊んでも大丈夫、マスクもいらない」と講演。その翌日の避難命令に村民はふざけるな!と怒った。長谷川さんは、牛を屠畜しないために国とやり合って、近隣酪農家に引き取ってもらったこと、相馬市の酪農家仲間が「原発さえなければ」と書き残して自殺したこと、隣20130411a-3.jpg地区の102歳のおじいちゃんが、計画的避難方針が出た後に「俺がいたら足手まといだべ」と一番良い服を着て自ら命を絶ったことなどを話した。最後に「実際にふるさとを奪われ、初めてその本当の意味が分かった」と講演タイトルの意味を語られた。福島の「ずうずう弁」、がらがら声で率直かつ簡潔に話す長谷川さんの話は、ズッシリと心に響いた。
 講演に先立ち、NAZEN青森共同代表の岩田雅一牧師が「これから1年をどう闘うか」を提起。90年代有事法制とPKO派兵を軸にした戦争国家化と92年東海村への返還プルトニウム搬入(核入手)を一体で捉え、90年代を時代の転換期と確認。それから20年後の安倍政権の登場を新たな転換期として認識しようと訴えた。六ケ所再処理工場を軸とした下北半島核基地化を撃つ青森の闘いは、安倍自民党政権との決戦の一環であると提起した。
20130411a-4.jpg 共同代表の中道雅史さんが、むつ中間貯蔵施設と、大間原発との闘いが原発再稼働阻止、核燃サイクル粉砕にとって重要な闘いであることを訴え集会を終えた。集会は60人の結集で成功した。
 翌日7日、六ケ所再処理工場門前で抗議集会が行われた。
 NAZEN青森は独自の前段集会を開催した。8・6-8・9反戦反核統一実行委の三角忠事務局長は、広島、長崎、ビキニが核燃サイクルにつながっていて、一体として闘わなければならないと提起。福島・百万人署名運動の長沢宏さんは、診療所開院を報告しさらなる協力を訴えた。NAZEN青森の仲間は、「福島のような事故が起これば、下北半島は壊滅する。絶対に止めよう」と訴えた。
 全体集会は自治労の大部隊も含め300人の結集で闘われ、再処理工場に向かって怒りのシュプレヒコールを上げた。
 集会後場所を移動し、六ケ所村内デモへ。今年は県内市民運動有志でつくられた「みらいアクション青森」主催のデモで、労組動員部隊も参加し、雨が降る中100人のデモが打ち抜かれた。窓から手を振る老夫婦や写メをとる若者がいた。
 前日6日には青森市内で、午前中に80人の結集で市民集会、午後に労組動員を軸とする1236人の結集で2013年「4・9反核燃の日」全国集会が開かれ、山本太郎さんもかけつけた。NAZENの仲間は、福島共同診療所パンフレットや7・8%賃下げ粉砕ストを呼びかけるビラをまき、解雇撤回JR復帰10万人署名を集めて闘った。(青森M・S)
写真は上から①NASEN青森結成1周年集会(4月6日)②六ケ所再処理工場門前抗議集会(4月7日)③六ケ所再処理工場建設反対の全体集会(4月7日)④ 「みらいアクション青森」主催の 六ケ所村内デモ (4月7日) 3333で
 

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