成田市で反対同盟事務局次長・萩原進さんを偲ぶ会
12月20日、三里塚芝山連合空港反対同盟が主催する「萩原進さんを偲ぶ会」が成田市で開かれ、全国から90人を超える人びとが参加した。
会に先立つ午後2時、東峰墓地で萩原家と反対同盟の案内でお墓参りが行われた。1年前に急逝した反対同盟事務局次長・萩原進さんは、両親や大木よねさんらとともに、この東峰墓地で眠っている。死してなお、暫定滑走路の南への延伸を阻むこの場所で、「空港絶対反対」を貫いている。人びとが列をつくり、次々と墓前に線香を手向け手を合わせた。
成田山新勝寺に程近い日本料理店を会場に、午後3時から「偲ぶ会」が開かれた。開会を前にビデオが流された。闘争初期の青年行動隊を率いるデモから、2013年の11・4全国労働者集会での発言など最近まで、萩原さんの勇姿を記録した映像を見て、その生涯が反対同盟の歴史そのものであることを、全員があらためて実感した。
伊藤信晴さんの司会で会が始まった。
黙祷を行ったあと、北原鉱治事務局長が主催者あいさつに立ち、「萩原さんは命をかけて、三里塚を全国農民の闘いとして発展させるために力を尽くした」と称えた。
続いて天神峰の市東孝雄さんが、「進さんの遺志を継いで闘うことが、残された私たちの務めと信じ、1年間がんばってきた。進さんはこれからも私たちとともにある」と述べ、献杯の音頭を取った。
参加者のあいさつの最初に、動労千葉の田中康宏委員長が立った。互いに組合青年部、青年行動隊の時代からの付き合いであることを述べ、ジェット燃料貨車輸送阻止闘争の思い出を語った。1978年、国鉄当局と動労カクマルが結託してのスト破りに対し、動労千葉は「いったんハンドルを握っても、三里塚に連帯する動労へと大変革する」との決意で、「輸送拒否から輸送阻止へ」の戦術転換をした。当時の青年行動隊の大半が「結局運ぶのか」とこれに反発する中で、萩原さんは「動労千葉は本気で闘っている」と理解と支持を表明した。そして、動労千葉は動労本部からの分離独立を果たし、81年に燃料貨車輸送阻止の5日間にわたるストを闘った(解雇者4人)。萩原さんはそこで再び、動労千葉の闘いを高らかに称賛した。この一連の経過を振り返り、田中委員長は「労農連帯は、必ず階級的労働運動の再生につながる」との確信を表した。
反対同盟顧問弁護団の葉山岳夫弁護士は、常に現地実力闘争の先頭に立っていた萩原さんの生涯を振り返り、農地裁判控訴審勝利を誓った。
全国農民会議共同代表の小川浩さんは、70年に千葉県の農村青年の組織化をめぐって萩原さんと一緒に日本共産党と闘った思い出を語り、安倍農政と闘う全国農民の決起をつくり出す決意を述べた。
革共同の深谷邦男同志は、「1期開港の既成事実をはね返した萩原さんの三里塚勝利論こそ、彼の真骨頂」と称え、「労働者・農民が革命の扉を開く。三里塚の勝利はその一環だ」と訴えた。
さらに多くの発言で、萩原さんの類いまれな指導力の厳しさと温かい人柄が浮き彫りになった。
家族からのあいさつとして、連れ合いの萩原静江さんが、70年に結婚してから進さんとともに悔し涙も喜びも共有してきたことを語り、「基本原則を守り家族ぐるみで闘ってきたことが、反対同盟の歴史をつくり上げた」として、参加者にお礼を述べた。萩原富夫さんは「頑固なおやじ」との日々をユーモアを交えて語り、「萩原進の魂は皆さんと私たち家族の中に生きている。私は反対同盟の最先頭で闘う」と胸を張り、ひときわ大きな拍手を浴びた。
司会の伊藤さんが最後に、1・11旗開き、3・4農地裁判控訴審弁論、3・29全国集会の日程を伝え、特に3・29を成田市中心部での開催に向けて準備していることを伝えて一同の奮起を要請し、会を締めくくった。(TN)
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