大坂正明同志の最終意見陳述(全文)大坂裁判第35回公判
警察・検察のでっち上げは明白
供述調書に信用性は全くない
沖縄返還協定批准阻止をめざす1971年11・14渋谷暴動闘争を闘い、「殺人罪」をでっち上げられた大坂正明同志の裁判(東京地裁刑事第4部・高橋康明裁判長)の弁護側最終弁論と大坂同志の最終意見陳述が10月26日、行われた。1週間前の検察官の論告求刑を完璧に打ち破る全面的な弁論が展開され、権力を圧倒した。特に大坂同志は、沖縄闘争の正義性を核心的に述べ、自らにかけられたでっち上げについて、供述調書がいかに証拠たり得ないかを説き明かした。裁判を傍聴した人々に感動を与え、大坂同志の無罪をあらためて確信させるものだった。1年間、33回にわたる集中的な審理で、日帝国家権力のでっち上げは完膚なきまでに粉砕された。11・14渋谷デモ、11・19労働者集会に大結集し、「大坂無罪」の大衆的な運動の力で12月22日(金)午後2時、判決公判に集まり、無罪判決をかちとろう。大坂同志の意見陳述全文は以下の通り。(見出しは編集局)
沖縄の声に応え臨んだ裁判
(1)
1971年11・14闘争は、沖縄返還協定批准に反対するものでした。沖縄では太平洋戦争末期、日本で唯一の地上戦があり、県民の4分の1もの人々の命が奪われました。戦後はアメリカに売り渡され、ベトナム戦争への協力や、米軍による事件・事故などによって、県民は二重・三重の苦難を強いられました。そこから「平和憲法の下への復帰」という運動が湧き起こったのです。
しかし、日米両政府は沖縄の願いを踏みにじり、米軍の増強と自衛隊の進駐によって「基地の島」としての固定化を図るという、ペテン的な返還協定を打ち出しました。
沖縄県民はそれに反対して、二度の全島ゼネストを敢行し、またコザ暴動という怒りが爆発した闘いも起こりました。
こうした沖縄の闘いに連帯して、本土の労働者・学生が立ち上がって返還協定批准に反対した闘いが、71年11・14だったのです。
(2)
現在日本では中国による台湾侵攻が喧伝(けんでん)され、その際には日本も参戦するとして準備が進められています。
日本政府は、憲法を無視して、核の傘を賛美し、軍事費の倍増、基地と軍備の増強、軍需産業の強化、殺傷兵器の輸出等々、あげればキリがないほどの戦争政策を推し進めているのです。
特に沖縄では、辺野古をはじめ、南西諸島での新基地の建設が強行され、県民の反対の声はことごとく圧殺されています。ミサイル基地には迎撃用だけではなく、敵基地を攻撃するためのミサイルをも配備することが企まれています。戦争が始まったらこの基地が真っ先に攻撃される対象となることは不可避であり、それは沖縄が再び戦争の最前線とされ、本土を守るための捨て石とされるということです。
この状況は半世紀前に沖縄返還協定に反対した人々が危惧したことであり、それが現実化してしまったということなのです。
沖縄県民は政府の差別・抑圧攻撃に屈することなく、粘り強く闘い抜いています。この沖縄の声を、本土の私たちは真摯(しんし)に受け止める必要があります。私は沖縄の声に応えるものとして、この裁判に臨んでいます。
写真という物証が無実証明
(3)
本裁判では、奥深山幸男さんの免訴問題の不作為についての審理を回避しました。共犯者とされた奥深山さんの裁判が、裁判停止後だけでも36年間もたなざらしにされたのは、私の時効を止めたままにするためです。
本来ならば、私の時効は成立し、逮捕・起訴はなかったのですが、指名手配が続いたために、この裁判を強いられているのです。このことは「許容しがたい不利益」そのものです。
奥深山さんの免訴問題の裁判所の不作為は、最高裁における高田事件の免訴という判例(1972年)に照らしても、極めて不公正であり、決して認められるものではありません。
(4)
①本裁判では、当時のデモ参加者の供述調書が証拠とされています。これらの調書は、警察と検察がデモのリーダーとみなした人物を重罪とするために作ったストーリーに沿って供述させたものです。
それは供述した学生たちが逮捕される前の段階で私の写真を入手したことに示されています。
あるいはITさんの取調べで、連日、「道案内は大坂だろう」と問いつめられ、「心が折れてしまった」と証言していることにも示されています。
②私に関する供述の特徴は、供述者によって私の人物像が異なり、共通点が全くないことです。したがって供述者の数だけ私が存在することになるのです。一体私は何人存在するのでしょうか。こうした人物像がくい違うという一点だけとっても、これらの調書のどれもが信用できないことを証明しているのです。
③ここでは、唯一の物証である、内田写真、中村写真、佐藤写真、横山写真によって、私を見たという供述や略図が嘘か誤認であると証明することに絞って述べます。
④当日の私の特徴を確認すると、身長176センチ㍍位、こげ茶のブレザーと黒っぽいズボン、「中核」のヘルメットを被り、タオルで覆面をし、頭の後で結んでいました。覆面はヘルメットを捨てるまでしていました。ブレザーは1着しか持っていないので間違いようがありませんし、覆面を後ろで結ぶスタイルはどのようなデモでもしていたものです。
そして行動においては、井の頭通りで、パトカーを追ったので、隊列から遅れてしまい、交番手前で機動隊と対峙した場面、すなわち内田写真・中村写真およびARさんの供述に基づく現場見取図の場面にはまだ追いついていないのです。したがって写真に写っていないのは当然であり、見取図は虚偽だということです。また中村巡査が倒れていた現場でも遅れて着いたのですから、殴ってもいないし、火炎びんを投げてもいません。
⑤ARさんは、私が白っぽいスーツだったと供述していますが、これは決定的に誤っています。これだけでもまったくデタラメだと言えます。現場見取図に、交番の手前数十㍍の地点でデモ隊が止まっている場面と、交番付近で私が機動隊を殴っていたという場面のものがあります。
内田写真は交番の手前数十㍍の地点で、デモ隊が止まっていたところから走り出した場面です。
交番手前の見取図と内田写真は全く同じ場面です。ARさんとAOさんは見取図どおりに内田写真に写っています。(ARさんは、調書によると160センチ㍍位、黒いコート、灰色のズボン、「中核」のヘルメット、メガネをかけ、左手に旗竿を水平に持ち、そのまま直進とあり、そのとおりの姿で写真に写っている。AOさんはベージュのコートで、本人も自分だと認めている)
しかし、私と星野さんは見取図と違い、内田写真には写っていません。中村写真にも私は写っていません。
もし見取図が正しいのであれば内田写真に写っていなければならないし、中村写真にも写っていなければなりません。そうでなければ私が真っ先に飛び出していったとか、交番付近で殴っていたという場面など成立しないのです。(内田写真と中村写真は3~4㍍程しか離れておらず、時間にすると1~2秒程の差しかない)
交番手前の見取図で私がいたとする位置を内田写真で照合すると、そこには白っぽいコートを着た人物が写っています。全体が黒い服装で白は非常に目立つことが判ります。ARさんがこの人物を私だと思い込んだ可能性はあります。この白っぽいコートの人物は「反戦」のヘルメットを被っているので、反戦青年委員会の労働者です。
⑥OTさんは、中村写真で前から3番目の人物を私だと特定していますが、この人物は黒いコートを着ているので、明らかに私ではありません。この人物は、内田写真と照合すると中央で左手にバールを持った人物のすぐ右側に写っている人物です。バールを持った人物は中村写真では先頭を走っており、その位置関係から、上記のことは間違いありません。
またこの2人とも、「反戦」のヘルメットを被り、覆面のタオルを後ろで結ばずに、なびかせていることから、私ではないことは明らかなのです。
そのうえ、OTさんは星野さんの裁判で、機動隊がつかまっているところでの人物特定の根拠は、「体つきだった」「体つきは見なれていれば判る」と証言しています。この論理からすると、私を見なれていないから特定することはできなかったということになります。
⑦AOさんは中村写真、佐藤写真、横山写真で私を特定していますが、その人物のブレザーは灰色系なので、明らかに私とは違います。そもそもAOさんは私を全く見ていないのです。
AOさんは星野さん、奥深山さんの一審段階までは、私を殴打現場で見たと供述していました。しかし控訴審で裁判長から「他の人の名前を出すと迷惑がかかるでしょう」と諭すように問われると、AOさんは「幹部ならば重罪はしょうがないと思った。しかし友人の名前は出さなかった」と述べています。そしてその直後の弁護人の「大坂を現場で見たのか」の質問に、初めて「見ていない」と真実を証言したのです。
つまり私を幹部の一人だと思い込まされ、友人をかばうかわりに、私の名前を出していたということなのです。
以上を見れば明らかなように、供述者たちは、私の実像を全く認識することなく、架空の人物を作りあげたか、他の人物を誤認したことが、写真という物証をもって証明できるのです。
断固として無罪判決求める
(5)
Yさん、Iさん、Hさんは、機動隊殴打現場を間近で目撃し、そこには私はいなかったと証言しました。
検察側はこの3名は革共同のメンバーか、あるいはかつてメンバーだったから、その証言は信用できないと主張します。
しかし、私はそこにはいなかったのだから、実際に誰も私を見ていないのです。したがってこの3名は見ていないから、「見ていない」と証言したのです。
この3名の証言が信用できないと言うのなら、証拠とされた供述調書は何をもって信用できると言うのでしょうか。
(6)
私は工学院大学には行ってはいないので、私の名前を出した供述者たちとは面識がありません。彼らは私を知らないまま私をリーダーの一人と思わされて供述したのです。当時、未成年だった供述者たちを、長時間の取り調べ、殺人罪適用の脅迫、大声での恫喝、誘導や父親に殴らせるなどによって作りあげた供述調書です。ITさんの調書は「全て検事の作文だ」と証言しています。
ARさんは機動隊殴打現場では、「頭がボーッとして無我夢中で、よく覚えていない」と言っていたのに、その後録画を再生するかのように詳しく供述していますが、現実にはそんなことはありえません。
このような供述調書には全く信用性はありません。とても証拠とすることなどできません。
(7)
デモ隊のリーダーであった星野さんは、これらの調書によって無期懲役の判決を下され、44年間の獄中闘争を強いられ、ついには獄死させられました。この理不尽さを決して許すことはできません。
(8)
私が全く信用性のない供述調書を元に、長期にわたる指名手配をされ、逮捕・起訴されたことも、その後の勾留と裁判に付されたことも全て不公正で理不尽なことです。
以上の結論として無罪判決を求めます。
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