特集
大坂正明同志は無実
大坂同志は無実 控訴審勝利へ①
でっち上げの経過
少年らに「目撃供述」強要
1971年、沖縄の労働者民衆は沖縄返還協定への激しい怒りを爆発させ、返還協定阻止の激烈な闘いを打ち抜いていた。70年12月にはコザ市(現沖縄市)で、米兵の交通事故をきっかけに怒りが爆発し、70台以上の米兵車両を燃やして、嘉手納基地にまで突入する暴動が起きた。71年5月には返還協定調印阻止の全県ゼネスト、11月10日には批准阻止の全県ゼネストが爆発した。
沖縄と連帯し決起
われわれは沖縄民衆と一体で闘うために、「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」を掲げて闘いを訴え、全学連と反戦青年委員会を先頭に総決起した。
星野文昭同志は、2009年の再審請求の意見陳述で次のように言っている。「私たちの当日の行動は、基地のない、戦争のない、だれもが人間らしく生きられる社会を求めるものだった」「もし、私たちが、当時の自民党政権の理不尽なやり方に屈し、私たちの責務を放棄するとすれば、かつての15年戦争、第2次世界大戦に反対・阻止しえず、膨大な犠牲を結果したのと同様の指弾を後の世代から受けるものだった。私たちは、この責務を果たすために当日の闘いに立ち上がった」「私たちの呼びかけに応えて渋谷に結集した万余の人々と合流し共に闘うこと、それが当日代々木八幡駅に降り立った私たちの目的だった」
こうして11月14日、小田急線代々木八幡駅に降りた星野同志をリーダーとする反戦青年委員会と全学連の部隊150人は、真っすぐ渋谷に向かって走った。当日、集会・デモが禁止され、全国から1万2千人の機動隊が動員され、渋谷周辺は戒厳状態だった。
途中、神山交番(当時)の前で新潟県警機動隊27人が阻止線を張っていた。大盾を構え、デモ隊と対峙すると、機動隊はガス弾を発射してきた。デモ隊は火炎びんを投げて応酬しながら、突き進んだ。阻止線は一瞬で崩壊し、大半の機動隊員はNHK方向の路地へ逃げ込んだ。デモの進行方向に逃走した数人の機動隊員の中、最後までデモ隊にガス弾を撃っていた者がデモ隊に捕まり、反撃され、翌日死亡した。池袋駅では関西から上京した教育労働者の永田典子同志が機動隊の襲撃で虐殺された。
星野同志たちは、都内各所から弾圧を粉砕して結集した労働者、民衆と合流し、夜まで機動隊と闘いぬき、渋谷暴動闘争を闘いとった。
「殺人罪」指名手配
大打撃を受けた国家権力は直ちに「特別捜査本部」を設置した。当初、警察・検察は現場の遺留品や民間目撃者の聞き込みから、反戦青年委員会の労働者を「犯人」にでっち上げようとし、12月に入って14人を次々に逮捕した。しかし、完全黙秘・非転向の闘いででっち上げは粉砕された。
追い詰められた捜査当局は、後藤田正晴警察庁長官の「何がなんでも機動隊殺害の犯人を検挙せよ」の号令の下、なりふり構わぬ弾圧に乗り出していった。
72年になり、星野同志が代々木八幡部隊のリーダーだとつかんだ警察・検察は、でっち上げ対象を学生に切り替える。警察官が撮影した現場写真に黒いヘルメットをかぶった、星野さんと同じ高崎経済大学の学生2人(少年)が写っていた。警視庁公安部はこの2人を格好のターゲットとして、1月19日に逮捕した。翌日20日には大坂正明同志の写真を千葉県警から入手。71年9月の三里塚第2次代執行阻止闘争で星野同志とともに闘っていた大坂同志にも的をしぼったのだった。
警察・検察は逮捕した2学生に「殺人罪」をふりかざした取り調べを行い、群馬の学生の名前を次々に供述させ、それに基づいて無差別逮捕に踏み切っていった。2月2日に奥深山幸男同志、AOさんら7人を始め、全部で12人を逮捕した。
逮捕した学生たちに「星野さんが殴っていた」という「目撃供述」を強制し、大坂同志については写真を示して名前を教え、「大坂も殴っていただろう」と目撃供述を強要した。
こうして2月21日、捏造(ねつぞう)された目撃供述のみを根拠にして、星野同志と大坂同志は「殺人罪」で指名手配されたのだ。こんな凶悪なでっち上げを絶対許さない。