1. HOME
  2. 特集
  3. 大坂同志は無実 控訴審勝利へ③

特集

大坂正明同志は無実

大坂同志は無実 控訴審勝利へ③

目撃供述が唯一の「証拠」
大坂同志は「未知の人」

 大坂正明同志、星野文昭同志らが「機動隊員を殴打した」というでっち上げは、取り調べで検察官が作成したデモ参加学生の「目撃供述調書」だけによるもので、物証も客観的証拠も一切ない。
 この「証拠構造」こそ、国家権力による冤罪(えんざい)をつくり出すものであり、古くは完全無罪を勝ち取った松川事件、最近では今年7月に再審無罪を勝ち取った福井事件(前川彰司さんがでっち上げられた)がそうだ。実に多くの冤罪をつくり出し無辜(むこ)の人々を苦しめてきた。
 星野同志と大坂同志は、6人の群馬の学生の「目撃供述調書」を唯一の根拠にしてでっち上げられた。6人は1971年11月14日の沖縄返還協定批准阻止闘争において、小田急線代々木八幡駅から渋谷へ向かったデモ隊に参加し、72年2月以降に逮捕された学生で、6人とも大坂同志は「未知の人」だった。また逮捕時、3人は少年だった。

殴打は見ていない

 この日、群馬の学生たちは朝早くから動き始め、厳戒体制の中、午後2時ごろに中野駅に集まり、約150人の隊列になった。星野同志をリーダーにして集団で移動し、午後3時13分に小田急線の代々木八幡駅で下車し、渋谷へ向かった。途中、神山交番前で阻止線を張っていた機動隊と激突した。機動隊からガス弾が撃ち込まれ、デモ隊は火炎びんを投げて応戦した。路上から炎と黒煙があがり、背中から炎をあげて逃げ惑う機動隊員もいた。
 その後、デモ隊は数人の機動隊員を追って渋谷方向へ向かった。最後尾を走っていた機動隊員がつかまりデモ隊から反撃された。それは1分に満たない短時間の出来事だった。デモ隊全体はまっすぐ渋谷へ突入し、都内各所から結集した労働者・学生・大衆と合流して、深夜まで機動隊との大攻防を繰り広げた。313人が現行犯逮捕された。
 群馬の学生たちにとって、機動隊との実力闘争は初めての経験だった。逮捕されたり負傷するかもしれないという極度に緊張した状況と意識に支配されていたのであり、「客観的観察者」でありうるはずはなかった。「殴打現場」の状況だけが詳しい「供述」は、それ自身が取調官の見立てに沿って強制されたものであることを示している。

減衰していく記憶

 「目撃供述」をした6人は、72年2月以降、突然逮捕された。そして、2~3カ月も前の「機動隊殴打現場の状況」を詳しく思い出せ、「殴っていたのは誰だ」「星野や大坂が殴打していただろう」と強く迫られた。
 しかし、記憶は時間の経過とともに減衰するのは明白だ。
 そもそも、当日は約150人の労働者・学生が様々な動きをしており、状況の全体を詳細に知覚(目撃)し、記憶することなど全く不可能だ。機動隊殴打場面を目撃したかどうかさえ分からない。その上、デモ隊の多くは黒っぽい服装をし、ほとんどがヘルメットをかぶり、タオルかマスクで顔を覆っていた。
 捜査官らは、逮捕した学生たちを、現場への「引き当たり」に連れ出し、実況見分に立ち会わせ、学生たちに圧力をかけ、捜査側の見込み通りの虚偽の記憶を植え付けた。
 学生たちの供述調書は、初めは出来事の詳細さを欠く短いものだったのに、繰り返し調書が作成される過程で人、物、行動、時間、場所などのあらゆる情報が詳細に供述されるように変遷していった。記憶の想起でないことは明らかだ。
 最大の問題は、群馬の学生にとって大坂同志は「未知の人」であったことだ。大坂同志の「情報」は全て権力がつくり、誘導し、押し付けたものである。
 国家権力による星野同志・大坂同志への極悪のでっち上げを暴き、大坂同志を絶対に奪還しよう。