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三里塚農地裁判で市東さん本人尋問。300人が千葉市内デモ

20130219a-1.jpg 2月18日、千葉地裁民事第3部(多見谷寿郎裁判長)で、三里塚芝山連合空港反対同盟・市東孝雄さんの農地裁判(行政訴訟と農地法裁判を併合)が開かれ、市東さん本人への尋問が行われた。この日は反対同盟の呼びかけに応え、労働者・農民・学生・市民300人が全国から結集し、市東さんの「農地死守」の闘いに全力で連帯する一日行動としてかちとられた。
 午前10時、司会の萩原富夫さんが「NAAの悪らつな農地強奪攻撃を粉砕しよう」と第一声を発し、小雨が降り続く千葉中央公園で総決起集会が始まった。最初に北原鉱治事務局長が発言に立ち、「今日は市東さんが闘いの正義をかけて証言する。祖父の代から耕されてきた農地が裁判によって奪われることを許してはならない」と奮起を促した。
 

20130119a-2.jpg 続いて反対同盟顧問弁護団の葉山岳夫弁護士がマイクを握り、「農地を強奪する判決を絶対に許さない」と、この日の法廷闘争への意気込みを表した。
 動労千葉の田中康宏委員長は、「われわれもこの春、解雇撤回、外注化阻止、非正規職化粉砕の新しい反合運転保安闘争を掲げたストに入る」と決意を表した。さらに関西実行委、市東さんの農地取り上げに反対する会、市東さんの農地を守る沖縄の会の発言を受け、高らかにシュプレヒコールを上げた。
 この日は3台のトラクターが力強いエンジン音を響かせて、デモを先導した。それぞれの車両には反対同盟と全国農民会議ののぼりがくくりつけられている。市東さん自身がデモの先頭で堂々と歩いた。千葉の繁華街には「農地を守れ」の叫びがとどろきわたった。デモは千葉地裁正面をシュプレヒコールを上げて通り、その後ただちに千葉地裁を包囲する「人間の鎖」行動に移った。
 参加者は雨をものともせず、農地収奪攻撃への怒りで手をつなぎあって裁判所を取り囲み、「反20130119a-3.jpg対同盟の歌」を大合唱した。
 午後1時30分開廷。まず、昨年5月に撮影された市東さんの畑と農作業のビデオが大型液晶テレビで再生された。そして弁護団の質問に答え、市東さんは自らの営農の現状を述べていった。
 年間で50種類もの野菜を完全無農薬で栽培している。一番の苦労は土壌づくり。堆肥を畑にまきながら辛抱強く土をつくり、作付けの順番にも悩みながら、試行錯誤を繰り返している。NAAが代替地に土を運ぶことまで申し出て土地明け渡しを迫っていることについて聞かれ、市東さんは「土をもっていけばそこで同じようにできるというのは暴論だ。絶対にうまくいかない」と断言した。そして「この土地は父が苦労して出稼ぎもしながらがまんしてつくり続けてきた畑だ。空港のために取られることなど耐えがたい」と強い怒りを表した。
 天神峰と南台の畑は市東さんの耕す農地の約6割。そして天神峰の農機具置き場、出荷場、育苗ハウス――「これらすべてを私から取るということは、産直の中でつくってきた人間関係をも破壊20130219a-4.jpgするということだ」と弾劾した。
 天神峰と南台の土地が小作地であるのは、孝雄さんの父・東市さんが、敗戦後に激戦地ビルマから復員が遅れたからだった。その遅れがなければ、戦後の農地解放で市東家の所有になっていて当然だった。
 その後学校を出た孝雄さんは、父から「手に職をつけろ」と言われて県内の飲食店に勤めていた。農業は二つ年下の弟が継ぐはずだった。だがそのことを決めた家族会議のおよそ10日後、弟は交通事故で不慮の死を遂げた。その悲しみを胸に秘めながら、東市さんは「空港絶対反対、話し合い拒否」を貫いて闘いぬいた。そして東市さんが1999年1月に亡くなると、その年の暮れに孝雄さんは天神峰に戻り農業を継いだ。「おやじがやってきたことを尊敬していた。おやじが守ってきたものを長男の私が守るのは当然と考え、気持ちを固めた」という。
 最初の3年は周囲の協力を得ながらも農家として苦闘が続き、貯めていた貯金を取り崩さなけれ20130219a-5.jpgばならないほどだった。しかし4年目でようやく軌道に乗り、自信がついた。「祖父の時から90年以上つくってきた土地を空港のために取られることなど認めない。私はあそこで死ぬまで農業を続ける」と市東さんは強い覚悟を表した。
 03年12月に突如、市東さんは耕作地の底地の登記が空港公団(NAAの前身)に移ったことを新聞の報道で知らされた。驚くべきことに、買収はすでに1988年に行われていた。「小作人に無断で農地を売り払い、そのことを隠し続けて何食わぬ顔で地代を受け取ってきた――信じられない思いだ。公団から口止めされていたとしか思えない」と市東さんは旧地主への怒りを語った。
 公団は転用目的で土地を取得しておきながら、15年にもわたってそれを「放置」していた。これが農地法違反であることについても、市東さんは厳しく指摘した。
 農業・農民を守るべき成田市農業委員会、千葉県農業会議がNAAの手先となり、市東さんと反対同盟の訴えを退け、契約解除申請にお墨付きを与えたことについて、農民として根底的に断罪した。
 そして、NAAが「特殊車両の置き場をつくるため」と言って空港の拡張へ向け天神峰のとなりの取香地区で新たな用地買収交渉を始めたこと、さらに第3誘導路建設、殺人的騒音、団結街道の封鎖・廃道化など数々の営農と生活への破壊攻撃に対して、市東さんは徹底的に批判した。
 4時間もの証言の最後に市東さんは、人生をかけた決意をたたきつけた。「農地法を悪用して農地を奪うことなど絶対に認めるわけにいかない。私はこの地で生きる権利をかちとる。工業製品を売ってもうけるために食糧は輸入すればいい――そんな農業切り捨てを認めるわけにはいかない。福島の原発事故、沖縄米軍基地に憤りを感じている人がたくさんいる。私はそうした人たちと気持ちは一つだ。動労千葉を先頭とする労働者との労農連帯を貫き、空港廃港まで闘う。裁判長、判決を出す前にぜひ天神峰の地に立ってもらいたい!」
 法廷は熱い感動と大きな拍手に包まれた。
 証言終了後、準備書面をめぐるやりとりで多見谷裁判長は、「告示区域だけでなく隣接した土地も空港の敷地内だ」と主張する千葉県の暴論をかばい立てし、弁護団から厳しく批判された。
 次回期日3月27日(水)では、いよいよ最終弁論が行われる。
 
 傍聴に入りきれなかった人びとは、開廷中も雨の中、市内デモと地裁前でのリレートークを行って法廷内外一体となって闘っていた。午後6時30分には参加者全体が合流し、近くの会場で報告集会が行われた。
 北原事務局長が弁護団の奮闘をねぎらったあと、市東さんが疲れも見せずに「これからもみなさんと弁護団の力を借りて廃港まで闘います」と笑顔を見せて簡潔にあいさつし、拍手と声援を受けた。
 続いて弁護団全員が発言し、この日の市東さん証言の大成功を確認し、次回最終弁論への決意を述べた。
 最後に萩原進事務局次長がまとめを行った。「今日は裁判所を包囲し、千葉の霞が関にあたる場所を“三里塚”に変えた。反動判決を絶対に出させないために、包囲を二重三重にしよう。第3誘導路供用開始の現地闘争を闘い、3・24全国集会には必ず1500人を集めよう! そして最終弁論の3月27日にも再び大結集で地裁を包囲しよう」と全身全霊で訴え、全参加者を奮い立たせた。(TN) 

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