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三里塚耕作権裁判で市東さん本人尋問―「こんな書面に父は署名しない」

耕作権裁判本人尋問を終え、充実した笑顔で証言を振り返る市東孝雄さん(3月18日 千葉市)

市東孝雄さんの南台農地をめぐる耕作権裁判が3月18日、千葉地裁民事第2部(齊藤顕裁判長)で開かれ、市東さんの本人尋問が行われた。三里塚芝山連合空港反対同盟と顧問弁護団、支援の労働者・農民・学生・市民130人は「農地死守」の固い決意で一つになって闘いぬいた。
開廷に先立ち、正午から千葉市中央公園で太郎良陽一さんの司会で決起集会が開かれた。東峰の萩原富夫さんが成田空港機能強化工事の現状を報告し、周辺住民と連帯して空港拡張を粉砕する決意を表した。動労千葉の中村仁副委員長は連帯発言で、ダイ改阻止を掲げてストに立ち上がったことを報告した。
さらに関西実行委、市東さんの農地取り上げに反対する会の発言を受け、市内デモに出発。吹きすさぶ強風に抗して横断幕、旗、のぼりをありったけの力で握りしめ、裁判所へ向けて行進する。宣伝カーからは婦人行動隊の宮本麻子さんが、成田空港会社(NAA)の違法を糾弾し、農地強奪阻止を市民に向けて訴えた。

開廷に先立ち、千葉市内を地裁に向けてデモ

〇岸本さん証人尋問
60を超える傍聴席を埋めて開廷。最初に、支援として三里塚現地で活動してきた岸本豊和さんの証人尋問が行われた。弁護団の質問に答えて自らの来歴から語り始めた。
岸本さんは1970年に琉球大学を卒業後、77年に岩山鉄塔撤去の暴挙に怒り三里塚に駆けつけた。同年6月から天神峰の現地闘争本部(石橋政次副委員長宅敷地内)などに居住し、天神峰・東峰地区を中心に支援活動をしてきた。
77年当時の天神峰の反対同盟農家8軒の耕作状況についても当然よく認識しており、岸本さんは「市東東市さんが南台で耕作していた土地はB、C、D。石橋家が耕作していた土地はF、A、E1、E2」であったことを明確に答えた。
また、東市さんから78年ころに聞いた話として、「1971年に石橋氏から畑の交換をしてくれと頼まれて、AとCを交換した」ことを述べた。また、E1の土地には石橋家が植えたキャラの木、屋敷林などが存在しており、東市さんがここを耕したことは「なかった」と断言した。

南台の関係土地図。現在はA、B、C、Dを一体で市東さんが耕している

石橋家がA土地の耕作をやめて87年に移転すると、ここを再び市東さんが耕作するようになった。放置すれば雑草生え放題となって荒れてしまうのである。天神峰で共同しての産地直送の野菜の出荷が増え、無農薬有機農法への転換が軌道に乗る過程であった。
また、東市さんは84年に母屋を建て替えた。岸本さんはこの時の東市さんについて、「棟上げ式の時、破魔矢を空港の方に向けて、『代執行来るなら来い、闘う』と宣言した」とすさまじい決意を表したことを証言した。
東市さんの人柄について岸本さんは、「実直。うそをついたり人を裏切るようなことはしない」と述べた。また戸村一作反対同盟委員長の「戸村思想」の後継者であることを市東さんが自認し、集会では「革命家として生きる」「空港公団と反対同盟は水と油の関係。ひざを交えたら終わりだ」「俺の鍬を持った右腕は、日本帝国主義打倒の右腕だ」と常々発言していた記憶を語った。
そして東市さんは戦争絶対反対の立場から、祖国敗北主義(自国政府が行う戦争についてあいまいさなく敗北することを歓迎し、自国政府打倒に向けて闘う)を信条としていた。それは日本帝国主義の侵略戦争に動員され捕虜となった痛苦な体験による強い確信であった。
東市さんは84年の成田用水重機搬入阻止闘争で機動隊の暴行によりけがを負い逮捕された。85年に脳梗塞を患い、右手にまひが残った。そうした様子を岸本さんは間近で見ていた。
岸本さんは、NAAが証拠だと言い張る「同意書」「境界確認書」の地積測量図について聞かれ、「事実と違う。こんなものに東市さんが署名・捺印することはない」と断言した。また自分が沖縄出身者として、米軍基地を残したままのペテン的「沖縄返還」に対し闘ったことを誇り高く確認し、その闘いを貫くものとして三里塚に駆け付けたことを述べた。そして東市さんの「農地死守・実力闘争」のゆるぎない信念・闘志からして、署名・捺印がありえないことを重ねて強調し、証言を終えた。NAAからは反対尋問なし。

孝雄さんの父、市東東市さん。喜寿の祝いで、戸村一作委員長の写真を前に(1991年10月)

〇市東さん本人尋問
続いていよいよ市東孝雄さんの本人尋問を迎えた。
祖父・市太郎さんの代から市東家は100年にわたり天神峰で農業を続けている。孝雄さんは、父・東市さんの戦争体験について明らかにした。20歳からの2年間、28歳から6年間、計8年軍隊にとられた。ビルマで抑留され復員・帰国が遅れたことから手続きが間に合わず、天神峰と南台の耕作地が小作地のまま残った。もし自作地だったら今回のような明け渡しを求められる訴訟にはならなかっただろうと述べた。
孝雄さんは「手に職をつけろ」と言われて中学卒業後に外に出て働いた。弟の芳雄さんが農業を継ぐことが家族会議で確認されていたが、不慮の交通事故で帰らぬ人となった。孝雄さんは自分が50歳になったら故郷に帰還し農業を継ぐことを決めていた。
東市さんは99年に亡くなったが、孝雄さんに宛てた遺言は、「土地建物や小作権は絶対に空港公団に売ってはならない」と厳命するものだった。
孝雄さんは反対同盟の萩原進事務局次長から、「空港公団は土地収用法の収用裁決を取り下げたから、もはや強制収用の心配はない」と諭され、天神峰に骨を埋める覚悟で99年に帰還し農業に取り組んだ。
南台農地については、A・B・C・Dすべてを地主・藤﨑から賃借している土地と認識し、地代を支払ってきた。当初の市東家の賃借地はA・Bだったが、石橋家とのAとCとの交換、石橋家の移転という経緯でそうなった。農家の立場としては、そのように全体を手入れするしかない。
そうして営農を継いで4年、ようやく軌道に乗ってきた矢先の03年12月、孝雄さんは自分の耕作地を地主が空港に売却していたことを新聞記事で知り驚く。その数日前には藤﨑に地代を支払いに訪れたが、その時は何食わぬ顔で受け取っただけだった! 地主は88年に空港公団に売却し、15年の間そのことを隠し続け、だまし続けていた。登記を完了するまでは地主が地代を受け取る、という覚書まで交わされていた。
06年6月にNAAが市東さんとの賃貸借契約の解除許可を申請したことが新聞報道された。ところが成田市農業委員会に出された申請書では、BとE1が賃借地とされていた。E1は明らかな間違いだ。この誤りを孝雄さんが指摘しても農業委員会はまったく取り合わず、また千葉県農業会議も「離作補償の額は近傍農家150年分の収入だから十分」と居直るばかり。06年9月に千葉県知事が賃貸借契約解除に許可決定を下した。そしてNAAは10月に、間違った図面をもとに「賃借地」以外の土地を「不法耕作だ」として明け渡しを求める本件訴訟(耕作権裁判)を起こした。
自分が一農家として誠実に一途に先祖からの土地を耕してきただけなのに、市東さんは裁判の被告席に座らされ、苦しめられてきたのだ。あらためてその理不尽が本人の口から語られ、法廷は静かな怒りで満ち溢れた。
質問は、土地の位置特定に移る。孝雄さんは子どものころから父の農業の手伝いをしてきた。AとBとが市東家のもともとの耕作地であることは自明であり、AとBの間には父・東市が一人で作った農道が存在する。E1の土地には石橋家の屋敷林とキャラの木が植えられていたことも記憶している。71年に石橋政次氏の申し出により耕作地を交換し、Aを石橋が、Cを父が耕作するようになったことも父から聞いていた。東市さんはその申し出を断れなかったものの、自分が作った農道から離れたCに移るのは実は不満が残る話だった。
このような石橋家と市東家の耕作地の位置の特定をめぐる事情について、孝雄さんは自分の叔母(父の妹)、石橋政次氏の妹、長女、次女、次男を訪ね、話を聞いた。石橋家の耕作場所は戦前からEとCであったことに間違いなく、71年にAとCが両家の間で交換されたことで認識の違いはなかった。
「NAAは最近になって、東市さんが裁判対策のために、賃借地の場所についてうそを言って混乱させようとしているなどと主張するが、どう思うか」との質問に答えて、市東さんは語気を強めた。「ひどい名誉棄損。頑固に空港反対を貫いてきた人だ。30年後に裁判になることを考えてうそを言うなど絶対にありえない」
また、同意書、境界確認書に東市さんが署名することの可能性について聞かれると、「大事な土地の場所を取り違えるはずがない。一度も耕していないE1を当初の賃借地だとする書類に署名するなど、絶対にない」と完全否定した。
自身が行っている現在の有機農業に質問が及ぶと市東さんは、「農薬・化学肥料を一切使わず、鶏糞・豚糞などを発酵させ乾燥させた有機肥料を畑に鋤き込んだ黒土を使った農業」と説明し、季節に応じて60種に及ぶ作物を育て、消費者に心を込めて届ける野菜であることを誇り高く確認した。そして昨年2月の強制執行で天神峰耕作地を破壊・強奪された怒りをにじませながら、「今後も農業を続ける」と意欲を表した。
市東さんは最後に裁判長を見据えて述べた。「農地は私にとって命そのもの、NAAが言うような単なる土地ではない。小作人に同意もなく底地を売買し、15年も隠し続け、位置特定も間違い。そしてあるはずの書類を出さないという不誠実極まる態度。前回の法理哲二証人(元空港公団用地部職員)の証言でも、『上司から報告書を書くように厳しく指導されていた。書かれた書類は永久保存』と証言していたというのに。こんな不誠実きわまりないNAAに私の農地を奪われるわけいにはいかない。明け渡し請求を棄却するよう強く求める」

NAA代理人の上野至、長屋文裕(左から)

傍聴席からは惜しみない拍手が起きるが、裁判官も廷吏も制止できない。
反対尋問を促され、NAA代理人上野至からの唯一の質問は、「石橋家の家族には陳述書は作成してもらえなかったのか」。自分たちの土地の位置特定の誤りがいよいよ確実となったことへの焦りでしかない。
さらに長屋文裕代理人が市東さんに発した質問は、「南台の方は順調ですか」「何か困ったことはありますか」。市東さんに「不法耕作者」の汚名を着せて訴訟に訴え、1年前には天神峰農地をつぶした張本人が「困ったことはあるか」だと! なんという恥知らずか。法廷は傍聴席からの怒声に満たされた。

次回の期日を5月13日と確認し、閉廷した。
近くの会場で、伊藤信晴さんの司会で報告集会が開かれた。最初に証言を終えた勝利感を湛えて市東さんがあいさつし、「NAAは反対尋問であんなことしか言えず、内容がなにもない。これからも頑張ります」と述べ、大きな拍手を受けた。続いて岸本さんは「東市さんの闘争精神を伝えたかった」と自らの証言を振り返った。弁護団がそれぞれ発言し、東市さんの人柄を浮かび上がらせることで、NAAの主張の信用性を完全に打ち砕いた勝利を確認し、18年続いた耕作権裁判がいよいよ最終陳述・結審に向かうことを告げ、参加者の一日の労をねぎらった。
連帯発言に立った全学連の学生は軍事空港阻止、岸田政権打倒の決意を力強く表明した。
最後に萩原富夫さんが、「市東さんの農地を守り抜くために、空港機能強化・拡張政策攻撃について、住民の追い出し、農業と自然環境の破壊、戦争準備であることを全面的にあばき、住民とともに空港反対の声を高めよう。3・31芝山現地闘争に結集を!」と呼びかけた。(TN)

スケジュール
◎芝山現地闘争 3月31日(日)午後1時開場 芝山文化センター(千葉県山武郡芝山町小池973)主催/三里塚芝山連合空港反対同盟

NAA側を圧倒した法廷を終えて、熱気の中で報告集会が開かれた

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