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動労千葉鉄建公団訴訟、東京地裁を怒りのデモコールが包囲

s20100729b-1.jpg 動労千葉鉄建公団訴訟の第25回口頭弁論に先だち、東京地裁包囲デモが照りつける太陽をはね返して極めて意気高く闘いぬかれた。動労千葉組合員を先頭に国労共闘や動労水戸、動労千葉を支援する会など100人以上が参加した。出発を前に動労千葉の田中康宏委員長は「われわれは6・13集会から新たな全国運動を開始した。今日の闘いは、その本格的な第1弾の行動だ」と参加者に呼びかけた。日比谷公園を出発したデモ隊は、昼休みの霞ケ関一帯を練り歩き、地裁横では「1047名の解雇を撤回しろ!」と怒りのシュプレヒコールを繰り返し浴びせた。
 午後1時半から、東京地裁民事11部(白石哲裁判長)で鉄建公団訴訟の口頭弁論が開かれた。 

s20100729b-2.jpg まず、前回証言に立った田中委員長への鉄道運輸機構側の反対尋問の続きが行われた。次に、動労千葉争議団長の高石正博さんが証言に立った。高石さんは国鉄就職以来の職歴をふり返りながら、労働運動に人生をかけてきた経過をたどった。高石さんが組合活動に本腰を入れて取り組み始めたきっかけは72年船橋事故だった。「自分がおこした事故への組合の取り組みを通して、動労千葉の役員をやっていこうと思った。安全への取り組みを一番継承してやっていけるのが労働組合だ。組合がどんどん会社に言っていかないと安全は崩壊する」。77年に休職を終えて職場復帰して以降、高石さんは広大な津田沼電車区の設備保守・管理、消防署・役所・業者などとの対外交渉を一人で引き受け、津田沼電車区になくてはならない存在になった。86年に人材活用センターが設置されたが、高石さんは隔離職場ではなく津田沼電車区庁舎内に設けられた部屋に一人で入れられた。身近にいないと何かあっても対処できないからだ。高石さんは「人活センターは『余剰人員対策』と言われたが私は余剰でもなんでもなかった」と証言した。
 高石さんは、85~86年の2波のストに関する指導責任を理由に停職3カ月の処分を2回受けた。「支部役員がストを指導することはない。労働組合を知っている人なら誰でも分かる話だ。しかも2波のストで解雇された28人は、和解で解雇撤回をかちとっている。停職処分も撤回されて当然だ。この処分でJR不採用になったのであれば、ただただ怒りだけだ」。また、昨年12月の口頭弁論での伊藤証言については「当初は採用候補者名簿に載っていたことを初めて聞いた。鉄道労連(現JR総連)と当局が結託して動労千葉組合員を排除したのだから当然にも不当労働行為だ。それを直接指示した葛西敬之(当時国鉄職員局次長、現JR東海会長)は自分のやったことが間違ってないと言うなら法廷に出てきてはっきり証言すべきだ」と語った。
 鉄道運輸機構代理人は反対尋問で「停職6カ月以上または停職2回という不採用基準は動労千葉は87年当初から知っていたはずだ」と過去の様々な訴訟の書類を示しながら執拗に質問をくり返した。傍聴席から「首を切った側がふざけたことを言うな!」と鋭い野次が飛ぶ。高石さんは「『こういう基準に照らしてあなたは不採用だ』といった説明を正式に受けたことは今日に至るも一度もない」と答えた。このやりとりを通して逆に、1047名解雇の不当性、非人間性があらためて浮き彫りになった。
 原告団と傍聴者は長時間の口頭弁論を終え、地裁前で総括集会を開いた。裁判所にシュプレヒコールをたたきつけ、夕方の国鉄闘争総決起集会に向かった。(O) 

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